2008年6月18日水曜日

『ノーカントリー』 コーエン兄弟が見せつける 災いについての現代の神話

※ 注意! 結末が分かる内容が含まれています。


私たち人間は、死を前にして、為す術のない弱々しい一匹の動物に過ぎない。


コーエン兄弟の最新作『ノーカントリー』は、そんな気付きたくもなかった真実を、まざまざと見せつけるオソロシイ映画である。

舞台は1980年のアメリカ南部。偶然、ギャングの大金をせしめたモス(ジョシュ・ブローリン)は、そのために冷徹な殺し屋シガー(ハビエル・バルデム)に狙われる。引退間近の保安官ベル(トミー・リー・ジョーンズ)は長年の経験で得た嗅覚で二人を追うが、有効な手だてを立てられない。その間にもシガーは人々を血祭りにあげながら、渇いた荒野を突き進む…。





映画史上最強の悪役・シガー
粗筋だけ聞くと、よくあるマンハント(人間が人間を狩る)物であり、これまでも似たような作品は山のように作られてきた。だが『ノーカントリー』はそういった作品群から十歩も百歩も抜きん出た傑作となり得ている。その一番の要因は、殺し屋シガーの異様なキャラクター造形にあるといっても過言ではない。

シガーは行動に躊躇がない。逃げるために保安官を絞め殺し、クルマを奪うためだけに警戒心の無い一般市民を射殺する。さらには薬局から薬を盗むために、店の前に停めてある車を爆破する。ひたすら理不尽で、無謀。ヘンなおかっぱ頭の彼がスクリーンに現れるだけで、私たち観客は、「次は一体何をしでかすのか」と恐怖してしまう。牛の屠殺用圧縮銃や、サイレンサー(消音器)付のショットガンという武器の奇妙さと相まって、シガーの不気味な存在感は時間を追うごとに高まっていく。


神は細部に宿る
シガーの素性や背景が作中、明らかにされることはない。コーエン兄弟は、その他の登場人物のバックボーンもほとんど見せず、またエピソードの起承転結をあいまいにしたりすることで、物語をあえて分かりにくくしているように思える。
その一方で、コーエン兄弟は演出の技巧を際限なく凝らす。シガーに絞め殺される保安官は、もがき苦しみながら無数のゴム靴底の跡を床に付け、シガーに恐怖するモスは、ホテルのドアの下から薄く漏れる廊下の灯りを見ながら、追跡者がやって来たかどうかを確認する。逆にシガーは換気ダクトの埃に付いた擦り跡を見て、現金入りのアタッシュケースのありかを思案する。前述の圧縮銃でシリンダーが吹き飛ばされ、ぽっかり空いてしまった鍵穴をクローズアップしたカットは、ドアの向こうで待ち構えるであろうシガーの存在を感じさせ、背筋が凍る。


「神は細部に宿る」という言葉があるが、コーエン兄弟の作品は常にその言葉通り、細やかな見せ方と演出の積み重ねの上に成り立っている。『ノーカントリー』も然り。その結果、登場人物の台詞や舞台、小道具の一つ一つに到るまで、「何か意味があるのではないか?」と息を凝らして、この恐怖の物語を見つめ続けるようになる。

災いをめぐる現代の神話
コーエン兄弟の企てた「物語の抽象化」によって、1980年代アメリカ南部という限定された舞台設定の物語は普遍化し、やがて「災いをめぐる現代の神話」として立ち現れる。そして、私たちに問いかけるのだ。
「迫り来る死に対して私たちはどうすることもできないのか?」
結局、シガーとは何者なのか? 思うに彼は、私たちに突如降りかかってくる災い(=事件・事故・災害など)の擬人化、いわば死神である。
災いは、その人間の性格やこれまでの行い、社会的な立場や性別を考慮することなく、一方的に命を奪い去る。それを前にしたとき、私たちは為す術もなく無力感に襲われてしまう。シガーも自分が死神であることを自覚しているかのように、他人にコイン・トスのゲームをやらせ、説教し、命を奪う。

死神さえも災いから逃れることはできない
「死を運ぶ男」シガーも、モスの妻から「このゲームなんて無意味。いつだってあなたが答えを出してきたじゃない」と逆に問い返されたとき、おのれの使命にふと疑問を感じてしまう。
そのときである。彼のもとにも突然の災いが降ってくるのだ。これは、シガーが死神から人間へ戻ったことを表す壮絶な展開だといえる。
あのシガーでさえも災いを避けられることはできない。このエピソードは、安堵と共に無力さを感じさせる奇妙な体験である。それは、人間はだれしも一生を死の恐怖から抜け出すことができないという冷徹な事実を目の前に突きつけられてしまったからだ。

「死の肯定」こそが、理不尽な災いに対抗する唯一の手段

だが、ここで初めて保安官ベルという平凡な人物の持つ意味が問われる。
彼はシガーの事件について何ら手を打てないまま、保安官を引退する。毎日を自宅で過ごすつまらない日常。
ベルはある日、夢を見て、それを妻に聞かせる。その内容は、死んだはずの父と旅をするのだが、父は自分を追い越し、先に行ってしまう。父は自分が辿り着こうとしている場所にいるはずで、そこでたき火をして自分を待っているはず…というもの。
年老いたベルにとって、若くして死んだ父は「死」の象徴である。彼は死が待ち受けていることを知っているが、それでもそこに行こうと歩き続けようとしている。その道程は無意味かもしれない。だが、それでも旅を続けるしかないのだ。それが生きるということだから。
おのれの無力さを知り尽くしているベルは、理不尽で無常な世界に対して距離を置くことしかできない。彼の受け身な行動について私たち観客は、保安官であるにも関わらずシガーという圧倒的な悪に対して有効なアクションを起こせなかったと批判することもできる。だが彼は、それでも生きることを止めず死に向かって歩き続ける。
ベルの夢は、平凡だが力強い「死の肯定」である。そして、これこそが、理不尽な災いに対して唯一の対抗しうることのできる手段なのではないか。それを恐怖の物語のエンディングとして持ってきたところに、コーエン兄弟の人間に対する限りない慈しみを感じた。

2 件のコメント:

  1. 元突貫・早志2008年6月25日 7:53

    コーエン兄弟の作品は、天使、妖精、はたまたドッペルゲンガーのような存在のキャラがよく登場するから、シガーはやっぱり死神だよね。
    俺は彼らの作品を「超現実」の世界と解釈していたけど、竜次の「現代の神話」という解釈も面白いな。

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  2. 早志さんコメント有難うございます。
    コーエン兄弟の作品に天使ともいえるような登場人物が出てくる(本作では死神ですが)のは、西欧的な思想が背景にあるのでしょうか? それとも彼らの出自=ユダヤ人というところに秘密が? うーんよく分からないですね。

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